17世紀初頭に、ヨーロッパからの探検隊や宣教師たちがこの地域へ到達し、先住民たちの生活が徐々に変わっていきます。(ヨーロッパ人がはじめてナイアガラの滝をその目で確認したのが1604年、実際にナイアガラ周辺地域を訪れたことを初めて記録に残したのは1678年だったのではといわれています)
かの有名なクリストファー・コロンブスが新大陸を「発見」したとされ、のちに「コロンブスデー」として公休日に設定されたのが1492年の10月ですので、ヨーロッパ勢がアメリカの土地に初めて足を踏み入れてからナイアガラにたどり着くまでは、150年近くの月日を要しました。
この頃から、調和を尊重し、自然の中に平和に生活していた先住民は自身の住む土地を「ナイアガラ」と呼ぶようになります。その語源にはイロコイ語からきていたり、モホーク語で「首」を意味する言葉からきている、というように諸説あります。また、イロコイ語で「海峡」「轟く水」を意味する言葉Onguiaahraが、ヨーロッパ人にも発音しやすいように簡易化されたのが「ナイアガラ」だという説も有力です。いずれにせよ、この時代が様々な分野において、もっとも興味深い時代とされているのは間違いないです。

フランスが与えた影響

初めてフランス人がナイアガラを訪れたのが1615年頃だったといわれており、その頃先住民たちの部族間抗争が激しく繰り広げられていました。その後、フランス人宣教師、探検団が続々と新世界に進出していきます。先住民に歩み寄り、戦闘方法などを指導することで、フランス人は彼らからの信頼を徐々に得ていきます。その結果、数々の失敗を重ねながらも、毛皮の貿易商売をよりうまく運ぶための交易市を建設していきます。しかし、初期のフランス人たちは強力な敵も作りました。
交易市を建設の過程の中で、フランス人は「セネカ族」という部族との抗争を経て、ついにはセネカ族を襲撃し、部族は大きな打撃をうけます。
その後、セネカ族はフランス人の交易市を包囲し、彼らが外に出れないように圧力をかけることによって、交易市内に生活するほとんどのフランス人を餓死に追いやります。
闘争に終止符を打つべく、フランス人は、フランス人男性とセネカ族の女性の結婚を提案します。これが功を奏し、セネカ族の人間も再びフランス人を信用していきます。
その際に「小さな交易所を建設したい」とセネカ族をだまして建設した巨大な交易市「ハウス・オブ・ピース」は、現在も「フォート・ナイアガラ(Fort Niagara)」(地図)として残っております。ナイアガラの滝中心地からは距離がありますが、ナイアガラ川を北上した国境線上(アメリカ側)にありますので、お時間がある方はぜひここまで足を延ばしていただくのもいいかもしれません。また、その時代に交易ハブとしての役割を果たしていたフォート・ナイアガラの南に位置するルイストン(Lewistown)という町にも、その頃の影響が色濃く残っています。
 

イギリスの与えた影響

フランスが時間をかけて築き上げてきたナイアガラでの成功を奪うべく、1759年にフランス人を襲撃してきたのがイギリス人です。やがてイギリス人は交易市を乗っ取り、そこで働いていたセネカ族を皆解雇してしまいます。これが後のイギリス人とセネカ族との間の抗争の火種となります。
イギリス人勢は、ルイストンを自身の避難地として強化していきますが、1763年ごろからその周辺でイギリス人がセネカ族による襲撃を受けるということが多発し、襲撃は次第にグレートレーク沿いに範囲を広げていきます。この頃、交易市のシステムを強化する目的でイギリスからたくさんの人員が送られてきます。しばらくはその勢力を保持していたイギリスですが、徐々にその勢力は衰えていきます。
 

アメリカ革命時代

1773年に勃発したボストン茶会事件は、イギリス、アメリカ、先住民族を巻き込んだ「革命戦争」の発端となります。
その後イギリスやフランスからの植民地開拓者や、アメリカの土地で生まれた彼らの子孫が、新世界をめぐって様々な変化をもたらし、新たな時代の波が押し寄せます。この時代を俗に「アメリカ革命時代」と呼びます。衰えていく勢力を何とか立て直そうと、イギリス勢は輸入商品などを課税し始めます。
イギリスが一方的に税制度の導入を試みたことによって、その他の先住民を含む住民たちがそれに対抗する形で、関係は徐々に悪化、複雑化していきます。これが後の「ボストン茶会事件(Boston Tea Party)」の発端となります。
この時代の植民地は、主に3つの立場に分類されます。
1. 革命派
2. 英国派
3. 中性派

1. 革命派 アメリカ人の先祖となる、入植者の子孫でアメリカで生まれた者たちを指す。
イギリスに虐げられ、反発するような形で戦争を引き起こす。

2. 英国派 イギリスからきた軍人、入植者、王族関係者。フランス人が作り上げた先住民たちとの関係性や貿易市を奪い、土地や貿易を牛耳ろうと試みた派閥。

3. 中性派 そのどちらにも属しなかった立場の人間。いずれはどちらかを選択するよう強いられ、争いに巻き込まれる。

もちろん2.の英国派は、ほとんどがイギリス出身者でしたが、中にはアメリカやその他のヨーロッパ出身者もいましたし、英国派を支持している先住民も多くいました。
その中でも、のちにナイアガラ周辺地域の発展に大きな影響を与えることになるのがジョン・バトラー(John Butler)やフィリップ・ベンダー(Philip Bender)のような人物です。
バトラーは、自身でバトラーズ・レンジャーズ(Butler’s Rangers)という部隊を招集し、英国派をリードしていきます。もとはドイツ出身のベンダーですが、彼ものちにバトラーズ・レンジャーズに加入し、5年ほど英国派のために戦います。

しかし、自分たちが生まれ育った土地に関する課税システムや法律が、遠く離れたイギリスの見たこともない王様や議員たちによって決められ、不当な仕打ちを受けている、という革命派の「反骨精神」のようなものが勝ったのでしょうか。結果、1783年のパリ条約をきっかけに、アメリカ軍の勝利をもって戦争は終わります。
(もともと土地を奪われたのはナイアガラの先住民で、土地を奪ったのは革命派の先祖たちなのですが、そんなことは彼らはもはや忘れてしまっています…)

革命派の勝利のあと、英国派の多くはアメリカから追い出され、戻ろうとした者たちは厳しい罰則を科せられます。英国王が結んだ条約のおかげで残ることを許された英国派の人間は、大佐まで昇格したバトラーの管理のもと、彼が購入したエリー湖とオンタリオ湖間の土地で生活することとなります。そこは先住民族にも見守られた安全な場所でした。

イギリス勢は、1759年から革命派に敗れアメリカを追放される1796年までの約37年に渡って、かつてフランス勢が築き上げてきた「フォート・ナイアガラ」を略奪し、周辺地域を圧迫し続けました。この戦いの終わりが、ナイアガラにとっての新しい幕開けとなります。